論理と感情の話。 【真面目な話】
みなさま、こんにちは。
麻婆飛騨丸です。
「コロナとの共生」が話題になってます。
一部、「コロナに負けを認めるのか」「コロナ対策より経済を優先するのか」「憎きコロナと生きていくなんて、しょせん他人事なのか、家族を殺された人の気持ちは」といった抵抗がありますが、いや気持ちは分かるんですが、コロナが元気にやってる中で人類が元のライフスタイルに戻ったらどうなるかは明白だし、経済の問題でも人は死ぬし、現実的にはそもそも共生していくしか道はないもんだと思ってたのでちょっとビックリしてます。
騒動がここまで大きくなれば感染病対策と経済対策はスッパリ分けて考えられるもんではないだろう、どっちを優先させるべきかなんてそう簡単に断言できないだろうと。
ヒダマルはほんと、感情より論理の人なんだろうな~と最近しみじみ思います。感情をないがしろにしたいわけでも、論理が最強レベルってわけでもないけども。学ないし。
でも学のないヒダマルにすら分かりそうなもんなのに、みたいな。
家族とも相容れない部分はあるなぁ。そんなガチで話し合ってないからってのもあるけど。とあるニュースとか社会問題とかで意見言ってるのを聞くに(いや、コレはこういう事情があっての事象だろうし根っこはむしろアッチにあるので今ソコをどうこう言っても)みたいなこと考える。
すごく分かりやすく言うと、こんな感じ。
母「ミュウツーって悪者なん?」
— ヒダマル (@hidamarirun) May 23, 2020
甥「わるいやつよ! にんげんきらいなとよ!」
ヒダマル(ちがう、悪いのは人間の傲慢と愚かしさであり、ミュウツーはむしろ正義の味方なのだ。そんな人間の性と相容れない厳然たる正義を力によって実現しようとする過ちを犯すもとある人間とそのパートナーの絆が彼
こういう、悪者を単純に捉えないみたいな思考ってたぶん、物語で培われてる気はします。悪いことする人にも事情はあるんだよと。でも多くの人はたぶん、「悪いことをする人は悪い人だ」と捉えてますよね。ちがうちがう、悪い人も良いことするし良い人も悪いことをする。個々人が決める良い悪いを最終的には社会とすり合わせるのが肝要だよみたいな。うんちょっとなに言ってるか分かんない。
でもそういう思索を経ずに「悪いことをした! 悪い奴だ!」となるのはちょっと、もうちょっとさ、深く潜ってみようよぅと思います(光のヒダマル)。
茅原実里さんのブログに説教コメント書いてる人たちとか何様だよとおもう(黒いヒダマル)。
最近はこれ。
小児型ラブドールの規制運動が進んでるそうで。ヒダマルは到底賛同できません。
「ペドフィリアは気持ち悪いけど、それだって人権なんだから」
— ヒダマル (@hidamarirun) May 25, 2020
って言ってる方もいるけどちがうのだ、ある性的傾向を「気持ち悪い」って指さすのがもうアウトなのだ。
ヒダマルが小児性愛やらラブドールやらを擁護するのは、個人の思想を簡単に排斥する世の中に住むのがものすごくイヤなのもさることながら、LGBT関連の話と照らし合わせて「それどう考えても辻褄合わねぇだろ」と考えるのも大きいんだとおもう。
— ヒダマル (@hidamarirun) May 28, 2020
私は「同世代の男性が恋愛対象の女性」という最大級マジョリティだからこそ他人の性愛を弾圧なんか絶対にしたくない。そりゃ正直理解できないものもあってキモいキモくないぐらいは思うけど、だからって違法化の署名を集めるなんて他罰性が異常だよ
— フキ⚡ (@fumin_kamin) May 26, 2020
まさにこういうことなんだけど、強いネガティヴ感情に晒されている人は、そうも思えず、そこを理解してもらうことは非常に難しいということも可視化された。感情の力は強い。本人の心の中では後付けでなんでも正当化できる。はたからどう見られるかは別にして。 https://t.co/5qnJPcGdLM
— めんたね (@mentane) May 29, 2020
「気持ち悪いから」「どこかに行って」「え、これ普通の感覚でしょ?」の3つが揃うたびに。
— アーティ・かろやかダイナマイト (@Ertai_twit) May 28, 2020
「ハンセン病の歴史が繰り返される」って思う。
児童虐待は許されざる犯罪です。
しかし小児性愛という指向・思考それ自体を非難・排斥するムーブって、どう考えても「差別」に行き着くんですよ(「どう考えても」という言い回しは好きじゃないけど)。
これはもう、論理では絶対ひっくり返せないレベルで(「絶対」という言葉も滅多に使わない)。
「現状の法律や人権に照らし合わせれば」や「小児型ラブドールの存在や所持や使用が実際の性虐待の増加に繋がる確かな因果関係が証明されれば別であるが」みたいな前置きは必要ですが。
(こういうのが分かってる人は「どう考えても」「絶対」をあまり使わないんです)
でも、感情で結論を出す人にはなかなか伝わらない。ものすごい断絶がある。理由は非常にフワフワしたものでありながら、結論は「認められるわけがない」の一点張りです。
先日「『善い』『悪い』はみんな自分で決めている」と書きましたが正にそうで、「論理より感情を優先して善悪を決定し」「その基準を理由に他者への人権侵害を申し立てている」んです。
これが歴史的に見ても危険極まりない思想形態であることくらい、それこそ学のないヒダマルにも理解できます。何を意味するか、どこに繋がっていく行動かを本当に想像できないのか。強い嫌悪感があるし、恐ろしいとも感じる。
別の記事ではこうも言ったか。
嫌いは嫌いで留めとけって話です。そこに整合性、ましてや正当性を後付けすると面倒な波及が起こる。
引きこもりもまた、貢献できる。 - ヒダマルのアニメ日記。
「差別と黒人が大嫌い」みたいなこと言っちゃう人ほんといるからな……。伝わらないからやるせない。
そもそも感情と論理は切り離せるものなのか、という問いはあるものの、流石にこうもあからさまな差別を見ているのは辛いです。
こういうのが正当化される背景には「人はみんなと仲良くしなければいけない」「私はアイツとは仲良くできない」「私と仲良くできないアイツが悪い」みたいなグダグダ三段論法が根底にある気はします。自責が強い人の結論は「アイツと仲良くできない私が悪い」になる。
本当は「合わない相手とは離れればいい」であり、そうしてみんなと仲良くする必要がないからこそ、結果的にみんなと仲良くできるんですが。
こちらはラブドールを愛好される方のご意見です。ぜひご一読ください。視野を広げ、視座を増やすことは、差別の撤廃に繋がると、ヒダマルは思ってます。