時代と正しさの話。 【ゲーム依存?】
みなさま、こんにちは。
ヒダマル連山です。
「最近の若いやつは」ってよく聞きますよね。
エジプトの石板かなんかを解読してみると「最近の若いやつは」から始まる一文があったなんて話もあるくらいで、この感覚・論調は人類のお家芸みたいなところあります。何千年前から連綿と受け継がれている伝統芸なんです、「最近の若いやつは」。
ふふ、このブログの話題もついに時代を超えるか。
新しいものは低く見積もられる。
これに尽きますね。
「ゲームしてないで本を読め。まんがでもいいから」の下に「まんがなんか読んでないで活字の本を読め」その下に「小説なんか読んでないで論語を読め」みたいな石が積み重なっている山の上に、私たちの子供世代が「プレイ動画見てないで自分でゲームしろ」の石を積むとは思いもしなかった。
— 大西科学 (@onisci) March 15, 2020
ゲーム規制の件で思い出すのは、20世紀初頭の女学校では、虚構と現実の区別がつかなくなり堕落するという理由で、当時の新興メディアだった「小説」が禁じられていたという話。
— ジェット・リョー (@ikazombie) March 15, 2020
夢中で小説なんか読んでる子供はマトモな人間に育たないぞ!
(中公新書1884「女学校と女学生」稲垣恭子・2007年) pic.twitter.com/g2Fqe02TYX
『美女と野獣』の主人公はですね、読書家です。豊富な知識と想像力を備えています。
でもその世界観の中では、「本ばかり読んでいる夢想家」だと認識されています。マッチョが取り柄の男(ダストン)をはじめ、みんなに馬鹿にされています。これ、「小説本が新しいものだった時代」というのも関係してるんじゃないかなと睨んでます。実際の歴史背景をつぶさに分析したわけじゃないですけど。
小説が出てきたら「小説ばかり読むな」。
漫画が出てきたら「漫画ばかり読むな」。
テレビが出てきたら「テレビばかり見るな」。
ゲームが出てきたら「ゲームばかりするな」。
YouTubeが出てきたら「YouTubeばかり見るな」。
……たぶんですけど、スポーツが出てきたときには「スポーツばかりしてたら駄目だ、馬鹿になるぞ」って言われてたと思います。音楽や演劇とかも。哲学なんて酷かったろうな。
新しいものってとかく「下に見られがち」なんですよね。これまでの文化・伝統を貶め、人間の正しい成長を阻害するコンテンツなのだ、と。
価値観・正義は変動する。
ということを、我々は知っておかなければならないな、と思うんです。
ヒダマルは保育士で、「ゲームやアニメの害悪」みたいな知識を伝えられてきた人種でもあるんですが、それでも思いますよ、大局的な流れを否定するのは間違ってると。
時代の変化によって価値観・正義は変動します。
ゲームが「スポーツの一種」であると分類・認識される時代が来ると予想できた人間は少ないと思います。「ゲーム依存」という言葉もなくなっていくでしょう。だって、卓球に人生を捧げて毎日何時間も練習して憑りつかれたように真剣な表情で試合に臨んでポイント入れたら「ッッアァア!!」って叫ぶ人のことを「スポーツ依存症患者」とは言いませんよね。むしろ「天才」や「努力家」でしょう。
ヒダマルは「人を殺してはいけない」も変動し得ると捉えてます。
善悪の定義は「この社会を維持・発展させるにあたって都合が『善い』か『悪い』か」なので、人間が肉体を離れて痛覚も感じず人格の復元も可能、みたいな前提があれば「殺人? まぁめんどくさいけど、懲役くらうほどではないよね」という世界もあり得るんです。これは妄想力・想定力がたくましすぎるので理解も共感も賛同も期待しませんけども。
まとめ。
まぁヒダマルも感じないではないです。
タッチパネルを感覚的に操って子ども向けYouTubeを見るネットネイティブな甥っ子ちゃんのコンテンツへの向き合い方を見てると「おいおい若者よ」と思うことは実際あります。
でも、それは何千年か前の「今時の若者は」かもしれなくて。
時代・次代の価値観から取り残されるのって、ダサいなぁと思うんです。
変化が早い時代なので難しいは難しいんでしょうけども(と同時に、早い変化を乗りこなす練習を実地でやれるチャンスでもある)、新しいものをよく知りもせずに否定するのは止めようね、という自戒も込めてでしたとさ。
とっぴんぱらりのぷう。
(これは残したいよね)