他人との正義の差異をどう扱えばいいのか。 【真面目な話】
みなさま、こんにちは。
ヒダマリストです。
この話題には面倒だから触れないでおこうと思ってたんですけども、ちょっとこう、この事案の枠を超える気づきがあったので書き記しておくべきだなと思って、かなり大袈裟に言うと「正義の再定義」のようなことが起きたので。
知ってたはずなのに忘れてたなと。
備忘録です。
あ、いちおう、最近の二大タイトルの結論はこうです。
昨今の表現の自由に関する論争はなんだかな。
— ヒダマル (@hidamarirun) October 28, 2019
「お前の母ちゃんでーべーそー」って言っちゃいけませんよレベルの話なはずなのに。
「いいや表現の自由があるから言うね! 声を大にしてね!」て叫んでたらそりゃ批判されるよ。
ひとりで生きてるんじゃないんだから。
宇崎ちゃんの件は「程度問題」の一言だろうと思う。
— ヒダマル (@hidamarirun) October 31, 2019
それと、追加。
いろいろ言いつつヒダマルは、
— ヒダマル (@hidamarirun) October 24, 2019
「この表現に私は不快を感じますし、同じような感覚の方も多いようなので、公共の場で大々的に貼り出すのは控えてほしいのですが……」
という論調が悪いとは思いません。
いきなり「こんなの好きなヤツ頭おかしいって」のニュアンスまで膨れてるから嫌なだけで。
ちなみに、
— ヒダマル (@hidamarirun) October 25, 2019
「ならお前が代案考えろよ」
「献血行ってから言え」
「血が足りなくなったら責任取れるのか」
という反論も、完全にズレてます。
その反撃がまかり通るなら、政治家にだって何も言えない。自分が経験した、責任の取れる範囲でしか活動できなくなる。いろんなものが停滞する。 https://t.co/xV3tOLMg83
どっちの味方だよと問われれば、ヒダマルの味方です。
続きまして、本題。
「あなたの推しは誰かの地雷」
宇崎ちゃんポスターについて、オタクとフェミ相互理解のための補助線 #BLOGOS https://t.co/9fzLnbijF3 『宇崎ちゃんポスターがエロいかどうか、実はガチのマジで「オタクにはわからない」。というのはオタクには自明の「あなたの地雷は誰かの萌え」という思想が行き届いているため』 ←同意吹いた
— 春名風花 official (@harukazechan) October 31, 2019
引用されている記事はこちらです↓
「あなたの推しは誰かの地雷」
オタクにはそこそこ伝わる言葉だと思います。
ただ、ヒダマルには「地雷」だと感じるほどのコンテンツはないので完全には共感できません。
そこで、誰にでも分かる言葉に言い換えます。
「あなたが心から大切にしているものは、他の誰かにとっては唾棄すべきもの」
です。
そんなことはない?
そんなことはないことはないでしょう。
人間は一度死ぬと生き返りません。
だから命は大事です。
しかし、人は他人を(または自分を)殺します。
「あなたが心から大切にしているものは、他の誰かにとっては唾棄すべきもの」です。ここまで大きな話でなくても、似たような事柄はいくらでも転がっています。
「正義の差異」をどう扱うか。
価値観の違い、とほぼ同義な気もしますが。
同じものを見ても感じることは違うし、生い立ちも感情も経験も倫理も論理も認知も異なる他人が70憶人存在するこの世界において、そういう「正義の差異」をどう扱えばいいのか。
しかし、「正しさ」「正義」なんて物は違う価値観の人間がいる限りその数だけ存在する。
— 八咫烏@ししゃも家フレンズ (@x5InoJV5xBxkKmW) October 28, 2019
自分を信じて行動するといい。いい意味でも、悪い意味でもそれはあなたに返ってくる。
「正しさ」「正義」時には「法」でさえも、その人が見る座標、立法された時代、人の価値観に過ぎないのだから。 https://t.co/HY8OuST5Zb
感情論・好き嫌いで「お前は間違っている」と言えば、それは確実にこちらに跳ね返ってくる。表現叩き・存在否定は巡ってくる。
(それが分かってる人は、少なくとも宇崎ちゃんの表現自体には石を投げないと思う)
(上のリンクに詳しいので読んで)
(また別の問題として、献血を促すポスターとしての妥当性についてはやや議論の余地があると思う)
ヒダマルの答えはこうです。
「尊重する」。
「ヒダマルはこれが好き」
「あなたはこれが嫌い」
となれば、「そうなんですね」で終わり。
相手の感性を尊重する。お互いに。
「尊重する」とは、相手の大切なものをこちらも大切にする、という意味です。
理解できなくても、受け入れられなくても、存在することを認める、という意味です。
他人が不透明であることを認める。
他者が他者として存在することを認める。
自分と他人は別の人間であることを認める。
受け入れる必要はありません。
許す必要もありません。
ただ認めればいい。
それが無理なら、やや乱暴に言うと、無視すればいい。
関わらなければいい。
放っておけばいい。
認めるとは違って、やや幼稚な態度だけど。攻撃するよりよっぽどいい。
ほんと今の多様性の時代に必要なのは
— Zirconia😎VRChat (@ZirconiaVRChat) September 14, 2020
「私には理解できないけど、あなたはそれが好きなんですね」という精神だよね
人が好きな物を無理に好きにならなくていいし
「あなたが好きな理由を私に理解できるように説明して」とか一番言っちゃダメなやつ。
理解できない物を理解できないままに許容しよう。
こういう時の例として同性愛を出すのは月並みすぎてアレなんだけど、
— Zirconia😎VRChat (@ZirconiaVRChat) September 15, 2020
同性愛者を受け入れるのに「彼はいかなる理由で同性を愛しているのか。」なんてことを理解する必要はないのよ。
「私は女性が好きですが、あなたは男性が好きなんですね。」と、これだけでいいの。本当に。オタ趣味も同じ。
多様性の真実。
こういう観点、『「ニート」って言うな!』という書籍にも詳しいですよ。超おすすめです。
『隠れアスペルガーという才能』『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』なんかと並んで、ここ五年で読んでよかった本の筆頭に挙げられます。小説をのぞく。
「ヒダマルって、実際のところ、どういう立ち位置にいるんだろう」という疑問のもとに、数年前読みました。『我が子をニートから救う本』とかも読んでます。
こちらの本の第二部、内藤朝雄さんが書かれた文章に、こうあります。
Aさんにとって、「このおかげで生まれてきてよかった」と思えるすばらしいものは、Bさんにとっては醜悪きわまりない。
Bさんが命がけで守ろうとしている価値は、Cさんにとってはおぞましい野蛮人の習俗である。
Cさんにとっての幸福は、Dさんにとっては退屈な牢獄以外の何ものでもない。
Dさんが「生きている」と感じるきらめきの瞬間瞬間は、Bさんにとっては底冷えするようなウソの世界である。
光文社新書 本田由紀 内藤朝雄 後藤和智 『「ニート」って言うな!』より引用
これが、「他者が他者として存在する」ということです。
「多様性」という言葉の中身です。
この中で、例えばBさんがAさんを、CさんがBさんを、「お前は間違っている」と攻撃しているのが、献血ポスター騒動の構造です。
この現実を受け入れられない人間が、他者へ発する言論の趣旨は、
「お前であるな」
あるいは
「私の理解できるお前であれ」
になりがちです。
虐待する親の心理と大差ありません。
もう少しエモーショナルに表現するならば、
「私を置いていかないで」
です。
理解できない世の中が、不透明な他人が、不愉快なんです。自分が安心したいがために、他者が他者であることを許さず、攻撃しているんです。
世の中で一番怖いのは、一つの価値観だけが正しいと信じること。
— ゲイの精神科医Tomy (@PdoctorTomy) October 27, 2019
世の中は、様々な立場、考え、価値観が絡み合ってできているわ。
それが生き物のように時間と共に変化している。
それを一つの価値観だけでジャッジすることは、無数の誰かを傷つけ、否定することになる。
柔らかく生きましょ。
まとめ。
自分用の備忘録でした。
とか言いつつもちろん、ヒダマルだって未熟ですよ。じゅくじゅくです。
黙ってられないこともある。世の中をより良いものにしたい、という気持ちがある。大きなお世話なこともあるでしょう。
グーグルアドセンス嫌いを公言してるのとか。
しかし、口を出すにしても、一回深呼吸して、多様性のなんたるかを再確認してからやりたいもんです。
そもそもこのスタンス、じゃあどうやって他人と関わり合って社会をより良くしていくか、それができなくなるんじゃないか、という問題を孕んでる。
ヒダマルはまだ言語化できないけど、アドラー心理学の実践で解決できそうな部分だと思う。大丈夫、なんやかんやいいつつ人は人と関わっていくし、関わらざるを得ないから。
現状、関わりすぎ、気にしすぎ、他者は自在に変更可能だと思い込みすぎ。
なんだろうな、「みんな仲良くしなきゃいけない」から、「お前が変わってくれないと仲良くできない」みたいな意識かな。
実際は、みんなと仲良くしなくていいから、みんなと仲良くできるのに。
尊重する。
認める。
それが無理なら、放っておく。
忘れないようにしたいと思います。