祖父の法事に行った話。【真面目? な話】
1年前。
祖父が腎臓を患い、身体を自由に動かせず、衰弱していく中。
泊まり込みの介護要員として出動したのが、ニートなヒダマルでした。
祖母と一緒に、排泄を手伝ったり、おむつを替えたり、食事を作ったりしながら、日に日に弱って行く姿を見守っていました。
最期の何日かは、意思の疎通もままならない状態で、5月23日午後4時ごろに、静かに息を引き取りました。
本当に、眠るように。
なにも、苦しまず。
そして、1年後。
去る5月20日の日曜日、一周忌の法事がありました。
喪服に身を包み、数珠をポケットに入れて、
あと、あれも要るな。
これも持って行こう。
あのセットは鉄板だから忘れずに。
そんなこんなを考えて、当日のヒダマルの持ち物は、
……法事には、親戚の子どもたちも、集まるのです。
3歳児ふたり、1歳児ふたり、0歳児ひとり、なのです。
彼ら彼女らと、好きに遊べるのです。
あのねぇ、
元・保育士のヒダマルからすればねぇ、
☆天・国☆
(超・不謹慎)
これがヒダマル。
祖父のことはもう、特に悲しんではおりません。
まぁ、看取った直後はショックでしたし、泣きましたけど。
(どのくらいショックだったかというと、通夜の際、2歳児同士が遊んでいる空間からエスケープするくらい。ヒダマル的には重症)
ただ、今はそんなに、です。
前にも書きましたが、ヒダマルの死生観は独特ですからね。
亡くなった人には、もうそれ以上悪い事は起こりません。もう痛くないし、苦しくもないんだから、そんなに悪い事象ではないと思うんです、死って。
だからその辺はすっぱり気にせず、「子どもたちと楽しく遊ぶ」ことのみに焦点をあてて、喜び勇んで法事へ赴いた次第です。
ちなみに、堂々たるノーネクタイです。
真面目な話、「あの細長い布を首に巻き付けて血流を悪くすることで、いったいどんなメリットがあるのだろう?」ということを、真剣に考えるべき段階に来ていると思います、人類は。
ノーネクタイで、法事に遊びに行く?
不真面目?
不謹慎?
罵りたくば止めません、これがヒダマルです。
お遊び紹介。
子ども大好きヒダマルが、どんな方法で遊びつくしたかご紹介します。
軽く解説すると、
3歳児は、共通のイメージを持って友達と遊べる年代。
1歳児は、歩いてれば楽しい年代。
0歳児(9か月)は、ずりばいで探索しつつ、目についたものを片っ端から口に入れるのが楽しい年代です。なにやってても可愛いです。
お絵描きセット。
スケッチブック、クレパス、シール。
まずね、コレは欠かせません。
基本的に室内で遊びますから、みんなが退屈しないような工夫が必要です。その点、紙さえあれば多少人数が増えても対応できるので便利なのです。
(ちなみに、紙はその場でびりびりっと破り取るのではなく、あらかじめ綺麗に切り取って内ポケットに忍ばせておきます。その場で破いて見せると、「僕も私も」となる可能性があるので)
それと、シールで遊ぶのも意外と楽しいですよ。
1歳ともなれば手先も徐々に器用になってきて、「シールを剥がす・貼る」という遊びもできるようになるのです。
100均に可愛いのが色々売ってるので、子どもと遊ぶ際はポッケに忍ばせとくといいです。モテますよ。
おままごと。
前日に作った、サンドイッチセット。
「ハンバーグ」「レタス」「トマト」「チーズ」に見立てて切ったフェルトを、パンで挟んで遊ぶのです。
3歳児向けに作ってみたものですが、想定していたほどは遊んでくれませんでした。
パンが板を加工したものだったのがマイナス点ですね。
ふわふわした柔らかい素材だったら、もっとリアリティが生まれたはずです。
ハンドメイド作品の研究中なのもあり、あえて「コレを与えたら、どう遊ぶかな?」という実験をしてみたのです。
風船。
これも鉄板ですね。小さく忍ばせておいて、膨らませれば大きな遊びができるという優れモノ。
年齢を問わずに興味を持ち、室内でも身体を動かして遊べるので、お絵描きセットと並んで欠かせないアイテムと言えるでしょう。
大人がみんな喪服でなければ「シャボン玉」なんかもいいんですが、法事には向きません。
時が来たれり。
5人の子どもたちの中で最も年長、3歳半の女の子がいるんですけどもね、数か月ぶりに会ったその子がなんとね、
プリキュアにハマってた☆
ああああぁぁぁぁ遂にッ、遂にこの時が訪れたああぁぁぁッ!!
3歳の女の子とプリキュアトークできる日が訪れやがったアアアァアァァァァァッ!!!!
次に会う時は、プリキュアの絵を描いて持って行きます!!
その絵を見せてね、「一緒に色塗りしよ?」って誘うんですよぉっ!!
この中で誰が好きとか、この間のプリキュアどうだったとか、楽しく語らいながら遊ぶんですよぉっ!!
3歳の!!
女の子と!!
何度でも叫ぼう、天国だッ!!
(激・不謹慎)
まとめ。
いやぁ、楽しかった。
炭酸を飲みながら子どもと好きに遊べるなんて、すべての保育士の夢ですからね。
(んなこたない)
お経をあげている最中も、そこかしこから奇声が聞こえるという不思議空間。
1歳児は常にウロチョロ歩いてますし、3歳の甥っ子はお経が途切れる度に「おわった?」って聞いてくるしで、あんなに退屈しない法事はなかなか無いと思います。
子どもが笑顔で、健やかであれば、それが一番。
生まれた人が、生まれた順に死んだのですから、何の問題もないのです。
お盆も、楽しみます。
最後に。
長年連れ添った相方を亡くし、一人暮らしとなった祖母は、落ち込んだり、元気になったり、なんやかんや忙しそうで、なんだかんだ楽しそうです。
しかし、やはり御年80近く。
足腰は以前より弱っていますし、これから病気もするでしょう。あんまし長くはないでしょう。たぶん。
でも、そういう様子を、しっかり見届けようと思います。学ばせていただこうと思います。
どう生きるのか、どう死ぬのか。
祖父は、死に様を見せてくれました。
身体を患って、弱る様を、老いる様を、死にゆく様を、孫のヒダマルにぜんぶ、見せてくれました。教えてくれました。
こういうのなら、ありだな、と感じました。
こういうのだったら、生きててもいいかもな、と。
ま、どうなることやら。
いずれは辿る道ですから(80まで生きてるかは、どうでしょう。正直わかんない)、祖母からもしっかりと、学ばせていただこうと思っております。
力になれる時は、なろうと思っております。
(なんつったってね、ニートだかんね。そーゆー時に活躍せんとね)
以上、ヒダマルでした。