『HUGっと!プリキュア』第3話に登場したおっちゃんの主張「ガキは嫌い」に対し理論武装してみる。
みなさま、こんにちは。
柄にもなくファイティングポーズをとるヒダマルです。
この形態のヒダマルは非常に珍しく、1897年を最後に映像に捉えられた記録は残されていません。思考能力は通常の3倍的なアレになります。無双です。嘘です。
みなさんは「保育園がうるさい」って主張、聞いたことありませんか?
メディアでは一時期話題になってましたが、最近はあまり聞かなくなったからといって、問題がなくなっているとは思えません。
なぜなら、「保育園が静かになる」なんてことは、子どもの(人間の)特性上あり得ないためです。
今回は『HUGっと!プリキュア』に絡めつつ、この辺の問題についてヒダマルの思うところをまとめてみます。今さら感すごいですが。
……このブログのアニメ縛り、どこまで続くんでしょう?
君はHUGプリを観たか。
15周年を迎えたプリキュアの新作、『HUGっと!プリキュア』。
その第三話では、謎の赤ちゃん「はぐたん」のご機嫌が悪く、大きな声で泣いていました。
そして、その泣き声を聞いた、近くにいたサラリーマン風のおっちゃんは、
「ビービーうるせぇな。だからガキは嫌いなんだよ」
とか言いつつ、主人公・野乃はなちゃんに絡んできました。
手には飲みかけの缶を持っています。「BLA」とまでは読めたので、たぶん無糖の缶コーヒーですね。シラフでこの酔っ払い感出せるとか……
この後、おっちゃんは悪の組織に利用されてプリキュアの浄化を受けてルンルン気分でお家に帰ることになるのですが、ハッピーエンドなので良しとしましょう。輝木ほまれさんが守ってくれましたし。キュアエトワールまだかな。
「ガキは嫌い」は悪なのか。
ここでは、「ガキは嫌い」と言いつつはぐたんを責めてきた大人が、悪者として捉えられています。正しくは、男性の中にあった「トゲトゲした気持ち=トゲパワワ」と、それを利用したチャラリートが悪いのですが。
ただヒダマルとしては、「ビービーうるさいからガキは嫌い」という感性そのものは、別に悪くないと思うんですよね。
だってですよ、「好き嫌い」の話に「善悪」を持ち込むと、かなり生きにくい世界になりません? 例えば、ちょっとずつでも、昨今LGBTの方々が生きやすい世の中に向かってきてるのって、誰にとっても喜ばしいことだと思うんですよ。
「嫌い」なだけでは悪ではありません。
「好き」なだけでは正義とは言えません。
ヒダマルは元保育士です。
子ども、大好きです。
ただ、「子どもが嫌い」「子どもの声を聞きたくない」という感じ方も、まったく間違ったものではないと捉えています。
その感性を理由としてはぐたんに絡んで来たおっちゃんは、行動を起こしてはじめて「悪」になったのです。
とりあえず、ここはキッチリ分けて考えておくべきでしょう。
断言しますが、「子どもが嫌い」とか「保育園がうるさい」とか感じている人は、即ち悪人な訳ではありません。ただ「そう感じている」というだけですから。
子どもは何故うるさいか。
ここでは保育士の知識を生かして、「子どもがうるさい理由」を軽く解説します。理由や原因が分かれば、対処の方法も分かるかもしれません。
「内言」と「外言」。
我々が思考する文章は、「内言」と「外言」に分けることができます。「内言」は心の中で考える思考。「外言」は口に出して言葉にする思考を指します。
そして、子どもにとって「内言」は非常に難しい行為です。
例えば、文字を覚えたての子どもって「音読」しか出来ませんよね?
「こんにちは」を読むとすると、「こ、ん。……にち、は」みたいに、一文字ずつ声に出さないと読めません。
子どもの思考は「外言」がメインです。大人のように、「頭の中で考えて喋る」ことは不得意なので、頭に浮かんだ思考はことごとく口に出す傾向があるんですね。だから、保育園や小学校はうるさいのです。
つまり、子どもたちにとって「喋る事」=「思考する事」だと言えます。
(あくまで一般的な意味であり、「あまり喋らない子=何も考えてない子」とは限りません)
存在は幸せなのか。
自分の意志で生まれてきた人間は、この世に一人もいません。
主にスピリチュアルな観点から反論が来そうですが、この一文はおそらく紛れもない真実です(スピリチュアルを貶している訳ではないので悪しからず)。
目の前の子どもがこの世に存在している原因は、100%大人の自己満足であることを忘れてはいけません。
子どもは、望んでもいない世界に産み落とされ、四苦八苦(生老病死と愛別離苦と、あとなんだっけ)を確約され、社会を維持しつつ幸福を追求する義務を負わされる訳です。
しかも、人間は基本的に不幸になるようにデザインされているので、人生それなりに頑張る必要もあります。
経験者の一人として意見を述べると、正直、キツイです。(少なくとも、現代社会の中で)生きることに向いていない人間は、います。
「存在することは不幸だ」と主張しているのではありません。
「存在するだけでは幸福ではない」と主張しているのです。
そして、地獄のような不幸を感じ得るこの世に、彼らを一方的にエントリーさせたのは、我々大人です。
私たちに出来ることは、彼らがなるべく幸せに生きていける手助けをすることだけであり、そしてそれは、先に生まれた人間の責務でもあります。
彼らを、応援しましょう。
彼らの、力になりましょう。
結論は一言で良いか。
「保育園がうるさい」と主張される方々よ。
あなたの感性は、決して間違っていません。
保育園は、うるさいです。
これは、客観的事実でもあります。デシベルで言えば70とかです。保育園が出そうが空港が出そうが暴走族が出そうが、騒音は騒音です。「人間は子ども好きであるべき」とか、価値観を押し付けられたら堪りませんよね。
ただ。
その主張には、「子どもは何も考えるな」という結論が待っています。
また、望んでもいないのに大人の都合でこの世に生を受け、
将来は飢餓やら戦争やら環境問題やら国の借金やら逆人口ピラミッド状態での年金支払いやらの責任をもれなく大人から押し付けられる未来を背負った他者を慮る想像力やそういった社会の仕組みと現状を理解するだけの頭をもしも持っているのであれば、
「うん、お前が黙れ💛」
以上です。
ヒダマルでした。
もうちょっと追記しとこうか。
……えぇっと、流石にこれだけでは喧嘩になりそうなので、もうちょっと追記しますね? ヒダマルは誰かの意見と対立することは意外とあんまり恐れませんが、その方と喧嘩したいとは微塵も望みませんので。
意見の対立と人間の対立は、似て非なるものですから。
改めてフォローしておくと、「保育園がうるさい」「子どもが苦手、嫌い、関わりたくない」という感じ方は、まったく間違ったものではないのです。
子どもの声はともかく、音楽なんかは園側が周辺住民に配慮して然るべきだと思います。
また、子どもに関わった経験が少ないという方の中には「子どもは精神スれた大人と違って、ただただ柔らかくて温かくて愛おしくて尊くて純粋な存在」だと想像している場合もあるかもなーなんて思いますが……、
人間ですから。
やつら、人間ですからね?
そこんとこ忘れてはいけませんよ?
子どもって騒がしいし、汚いし、言うこと聞かないし、危ないし、いたずらするし、倫理観は期待できないし、感情で動くし、物は壊すし、汚すし、何でも口に入れるし、喧嘩するし、怪我するし、まぁ他にもいろいろと、困った要素を多分に含んだ存在なのです。綺麗事だけではありません。
ヒダマルは、そういった部分もひっくるめた上で、子どもが好きなだけです。
だから、「子どもが嫌い」という方がいても、なんら不思議ではないのです。その人たちの立場を、状況を、感性を、想像すべきです。尊重すべきです。理解と共感の努力をすべきです。
もちろん「子どもが嫌いな人は嫌い」という価値観だってアリでしょう。ヒダマルは該当しませんが。
(プリキュアに出てきたおっちゃんのような、威嚇と暴力を以て接してくる人間は大ッッッッ嫌いですが)
ただ、ただですよ。
自ら望んで生まれてきた人間なんて、一人もいないんですよ。
それは大人だって同じですが、子どもはその上、何の責任も負ってないんですよ。
何の責任もないということは、何の自由もないんですよ。
それなのに、やれしつけとかやれ勉強とか、やれ受験とかやれ進路とか、やれ社会問題とかやれ環境問題とか、次々押し付けられるんですよ。
子どもが可愛いとか大切とかどうこうは置いといても、普通に同情しませんか?
この上、「保育園がうるさい」とまで責めますか?
それはちょっと、厳しいっすよ……。
相手の置かれた立場と状況を、想像しましょうよ……。
ガマン、しましょうよ……。
子どもじゃないんだから。